日本最高の強運男‘山越義雄’物語 Vol.3
昭和33年1月26日。 この日も、山越さんにとって生涯忘れられない日の1つとなった日であった。 この日、山越さんは商用で18時頃発の‘南海丸’という船に乗って、徳島県の小松島港から大阪に向かう途中であった。 当時、牛の売買の商売をしていた山越さんは、まず、牛を淡路行きの便で大阪に送ったあと、自分はこの南海丸で、大阪に行く予定であった。 そして、南海丸に乗ろうと港にやって来たのだが、出発時刻より少し早くついてしまい、時間つぶしにでもと、おちょこをひっかけてほろよい気分で鼻歌を歌っていた。 ところが、酔いがまわり、出発の時間に気づいた時は、時すでに遅く、桟橋がはるか高く上げられていた状況であった。 港の工員に、「なんとか待ってくれんか!」と泣きついても、もうダメ!と冷たい返事しか帰ってこない。 船も、沖にドンドン進んで行く・・・! 遅刻ということをしたことがない山越さんは途方に暮れ、 「どうしたらいいんだ?」「商用の相手に何といいわけすればいいんだ?」と、目の前が真っ暗! 「仕方がない!淡路経由で大阪に行くしかない」と決心して、淡路行きの準備をしに港を離れた。 そして、時は18時30分。海上保安庁の巡視船に1本の無線が入る。 「淡路島の沼島沖で客船が連絡を絶った。現場に急行せよ!」 これが、当時、全国にその惨事を轟かせた‘南海丸遭難事故’の連絡であった・・・! この事故は、乗員乗客167人全員が死亡という、わが国の海難事故でも記録に残るような大災害で、高知から来た台風のような突風の一撃によって沈没したものと後の調査で検証されている。 このニュースが小松島の山越さんの身内、親戚、関係者が知るやいなや、 「山越が死んでしもうた!」「可哀想に!冷たい海の中でおるんやのう!」 と、てんやわんやの大騒ぎ! しかし、そこへ、そんな大惨事が起こっているとは夢にも思わない山越さんは、 「えらいこっちゃ!船に乗り遅れてしもうたわ。はよう大阪に行く準備をせにゃ〜ならんわ!」 と、ぶつぶついいながら家に帰ってきた。 それを見た親戚の人が、 「ウワー、山越はんが帰ってきよった!幽霊ではなかろうな!」 と腰を抜かさんばかりに驚いていたそうな・・・! もし、‘南海丸’に乗っていれば、100%亡くなっていた。 そして、普段からしたことのない遅刻をどうしてしてしまったのかは、ただ単に、おちょこをひっかけてしまったことだけが原因ではないことは確かである。 どちらにしても、洞爺丸に次ぐ大海難事故から九死に一生を得たことは間違いない。 |
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