店主 内藤
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痛快!店主のひとりごと
店主のひとりごと Vol.223
智 恵
2012.02.13

さて、本日は、2月13日で、‘日本最大の叡智’と言われ、別名、‘日本最大の黒幕’と言われたある人物の誕生日でもあります。 

その人物とは、このコラムでも少し紹介した‘安岡正篤’さんという方です。


安岡さんは、日本の世界に誇る学者であり、歴史においては歴代首相など政治家の先生方が、苦難になったとき必ずお伺いをしていたことでも知られています。

安岡さんのことを知らない人でも、終戦の時、昭和天皇さまがお読みになった玉文である

「・・耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万国の未来、子々孫々のために、太平の世を・・」

や、まさに今の元号である‘平成’という文字の原案を草稿した人と言えば、何んとなくともおわかりいただけるかと思います。


古今東西の歴史に精通し、あまりに博学で、その発言力は、誰も反論の余地の許さないほどのものでした。

そして・・・・

氏は、‘王陽明’の研究者でもあり、当然、すべての思想家を研究し尽くしての最終研究対象が‘王陽明’だったということを意味しています。

実は・・・・王陽明こそ、この世の思想の中でも、神霊が最も評価している人物でもあるのです。

朱子学を大成した朱子も立派なれど、理論に偏り過ぎている面がある・・・・というように、どこかに欠点があると言われます。


その王陽明の評価基準の高さに、彼の説いた「知行合一」というものがあります。

ようするに、知っているという知識と実際の行動が伴っている、ということで、知ってもそれを実践しなければ知らないこととまったく変わらないということです。

実践の学問を尊んだというのが、神霊の高い評価の基準なのです。



ところで・・・・

氏の生まれ日の13日ですが、この13という文字は、非常に意味深であり、一般の方々の想像もできない秘密の数でもあるのです。

そもそも、13日を不吉としたのは西洋ですが、これはイエス・キリストが処刑された日が、‘13日の金曜日’だったということによっています。

しかし、すべて根源はあいまいな説で終わっており、イタリアでは17日の金曜日とかスペイン語の公用語国では、13日の火曜日が不吉だったりとバラバラなのです。



信じる、信じないはどうでも良いことですが、この‘13’という数こそ、店主の研究では、‘智恵’を表す、非常に貴重なる数字なのです。

この13日は、我が日本では、智恵の仏である‘虚空蔵菩薩’の縁日であり、難解極まる仏典の奥義も読解できるようにと、あの空海や日蓮がひたすら智恵を求めてすがった仏でもあり、彼らの情熱に対して見事に叡智を与えられています。

この智恵が13という数字に象徴するのは、姓名判断においても、‘13画は智恵のある子になる’という解説にも片鱗が現れています。

※姓の最後の画数と名前の最初の画数の和が13画となっている人は、先祖から智恵ある要素を多分に受け継いでいることでしょう。

松田聖子ちゃんなら、田と聖で18画で、先の安岡正篤さんは、岡と正でちゃんと13画になっているのですが・・・・



ただ、これだけの理由で ‘13が智恵を象徴しているのだ! ’と言っているのではないのですが、とにかく、意味深な数字なのです。

わたしたちの日本語と数字の関連性を読み解いていく秘密の学問があるのですが、それを学んだ時に、今、私たちが見てきた人間の名前以外の固有名詞というものが、いかに精妙に作られているかということに気づかされ、神秘の感に打たれるしかないのです。

偶然についている名前などないのです。


恐らく、花や木、動物ほか鉱物、科学名などの名前を付ける時には、ある種のインスピレーションによって‘付けさせられている’というが真実なのです。

一部の方には、その片鱗を漏らしたことはあるのですが、人間の智恵など遠く及ばぬ叡智があり、ある法則性によって秩序正しく名前ですら配置させられているのです。

この世には、すべて一定の法則があり、その法則性を学ぶことが真実の学問であり、物理や人間の心にも一定の法則性で貫かれています。


その中でも、やはり、わたしたち自身の心の法則を学ぶことは非常に大切なことです。

お釈迦様や孔子、イエスが、なぜ、聖人と呼ばれているのか? 考えたことはあるでしょうか?


たくさんのお金を寄付したのでもなければ、病める人の病気治しをしたのでもありません。

ただ、‘人の心の法則を解明し、幸福に至る道を説いた’がゆえに聖人なのです。

この絶えない変化し続ける心なれど、その変化する中にも変化していく一定の法則というものがあるんだよ!と説いた人たちなのです。


それが1000年経とうが3000年経とうが、普遍に人類すべてに共通し、あてはまるものだから法則であり、それを見抜いたから聖人足りえるのです。

彼らは、宗教者と言われますが、見方を変えれば、巨大な心理学者であり、数式の公式を考えだすような知恵者であると言えるでしょう。


ただ、通常の物理学者や数学者と違うところは、すべて他者を生かそうとする愛情が根底にあるということです。

そして、法則性を見抜こうとする時に絶対必要なことは、‘客観視できること’ですが、単なる自然現象を観察して法則性に気づくことよりもはるかに難しいこと・・・

それこそ、‘自分自身を客観視すること’なのです。

悟りを開くのにもっとも早い方法と言われているものこそ、この自分自身の考えていることを客観視することです。


これを仙道では、‘自観法’と読んでいるのですが、いつか詳しく解説したいと思います。

以前よりお話しておりますように、‘観音とは自分を観察したるにすぐれたるもの’という意味を何度も考えて欲しいのです。

観音様とは、ただ単に拝む対象なのではなく、あなたが観音の位にならなければならないのです。

他力本願や感謝だけでは、絶対覚れないし、客観視し、その得た智恵を地に降ろさなければ進歩と現実世界の成就には遠くなってしまいます。


神霊の言葉に、

「ただ心で感謝するだけの者よりも、なんの信仰心もなくとも、自分の可能性を求めて精進し、具体的な行動をしているもののほうが尊い」

というのがあるくらいで、これこそ、先の王陽明の唱えた‘知行合一’を最も評価している点と符合しています。


自分を信仰心があると思っている宗教者の中には、真の悟りとはほど遠い‘おかげ信仰’に陥っている‘勘違い信仰’の方もおられます。

本当の信仰というのは、何ごとが起きようと自分の幸福な感情が揺れ動かなくなるための境地を達成し、そして、それができた時、他の人々にもその境地を達成することに尽力するという内と外の救済に至るまでの指導を乞うのであって、

金運が上昇したり、病気が治ったり、出世したりすることを達成するために神仏に祈ることを‘信仰する’とは、絶対言いません。


神仏に願うことがあるならば、それは、結果を祈るのではなく

「金運が上昇する法則、病気が治る法則、出世するために法則を悟れますように・・・」

と、人間としてのたゆまぬ努力の過程の中で、そのヒントを頂けますようにと祈るのが本当です。

その努力の中で、いろんな声なり、現象が現れて、なんとか気づいていくというように導いて頂けるはずです。

それは、‘天上天下唯我独尊’のごとく、その人のレベル、情熱に応じて適度に変化していきます。


これこそ、イエスの言葉にある「求めよ! されば与えられん!」の真の意味です。

結果ではなく、達成するまでの過程がもっとも尊いのです。


営業の世界でも、いつも1位を取っている人は、1位になるだけの商売の‘法則性’に気づいた方であり、まさか神仏にいつも1位になれますようにと拝んでいるだけの人ではなかったはずです。

その普遍の法則に気づけた人ほど真に叡智ある人であり、それが人々の生活の向上に根差したものであればあるほど‘○○の神様’と呼ばれていることでしょう。

もし、拝むだけで希望が成就するのなら、朝から晩までお経でも唱えていれば良いのです。

どんなに尊いお経も成功哲学でも、実践の場に生かさなければ知識と発声練習で終わることになります。


店主も、このことを肝に銘じておりますが、誰よりも至らぬことは承知しています。

自分を客観視し、物事の法則性(コツ)を見抜く観察眼をできる限り鍛えていきたいと願う日々です。

※本日は、先の中村公隆さんと鏑射寺のことで詳しく書こうかと思っていたのですが、なぜか・・・・