店主 内藤
世の矛盾、スジの通らない事に店主・内藤が吠える!
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痛快!店主のひとりごと
店主のひとりごと Vol.220
ユーモア
2012.01.21

さて、今回は、昨年の地震によってすべてを失った方々のことも含めて、わたしたち‘人間’を見つめなおす場を持ちたいと思います。

2011年、3月11日から今まで何事もなく暮らしていた生活が一変してしまい、まさに地獄のような生活を強いられている方々が多数おられます。

家族、身内を失われた方、身内は無事だったけれど職を失い、生活のメドが立たない方などなど・・・・・


そして、毎年、日本だけで3万人を超える自殺者・・・・

‘絶望’という感情が込みあげてきますが、この絶望という感情は、‘自己放棄’という意味も重なり合っています。



皆さんは、‘アウシュビッツ’という名前を聞いたことがあるでしょうか?

そうです! あのヒトラーの政権下で行われた、ナチスのユダヤ人絶滅計画で行われた処刑場の代名詞にもなった収容所のことです。

この行為は、人類の歴史の中でも、もっとも凄惨な、惨たらしいものでした。

この内容は、‘夜と霧’という映画の中でも、如実に伝わってきます。


この‘夜と霧’という映画は、もともと、オーストリアの精神科医であり心理学者のヴィクトール・フランクルという方の手記を元にしたものです。

フランクルは、ナチによって強制収容所に送られた一人で、妻も娘も両親も、すべて収容所で死んでいったのです。


収容所は、人間の尊厳をすべて無視し、動物以下の生活を強い、あまりの恐怖と飢餓に自殺者も多数出た、この世の地獄以外の何物でもありませんでした。


この地獄の中で、ユダヤ人たちは何を思い、どんな人達が生き残り、どんな人達が自殺していったかを、心理学者として自分自身の感情も踏まえて、人間の本当の極限を洞察し続けた記録でもあります。

その収容所の中で、ある時、飢えた収容者がじゃがいも倉庫に忍びこみ、数キロのジャガイモを盗むという事件が起こりました。

ナチは、その実行者の引渡しを要求し、それを拒めば、収容所の全員に一日の絶食を課すという罰を与えると通告してきたのです。


その収容所には2500人の人達がいましたが、その密告によって実行者は絞首刑になることがわかっていました。

2500人は、その実行者を知っていました。

しかし・・・・

誰一人、ナチに密告をするものは現れず、その日の夕方を迎え、寒さと空腹、そして停電の暗闇の追い打ちが、収容所のユダヤ人たちの心をますます苦しめていくのでした。


そんな中、この数日に病死したものや自殺した仲間についてボソボソと話し出すものが現れ始めました。

その時、その収容所の班長と言われる男が、フランクルの所にやってきて、仲間の死のほとんどが、‘自己放棄’によるものだと言い、精神的な崩壊によって次の犠牲者が出ないようにするために何をなせば良いかをみんなに教えて欲しい、と頼むのでした。


フランクルは語りました。

「未来は未定であり、いつ今よりも労働条件の良い所に移送されるかもわからない」

「わたしたちが過去の充実した生活の中、豊かな経験の中で実現し、心の宝物としていることは、誰にも奪えない」

「また、わたしたちが苦しんだことも、すべては過去の中で永遠に保存されるのだから、ただ苦しむのでなく、友に対しても家族に対しても人間の誇りを失うことなく生き続けることが大切なんだ」


と、仲間たちを励ますのでした。

そんな中で、フランクルが、仲間に対して訴えたことがあったのです。


それこそ、・・・・ ‘ユーモア’ の重要さだったのでした。


彼は言いました。

「ユーモアは、自分を見失わないための魂の武器だ! 
ほんの数秒でも周囲から距離を取り、状況に打ちひしがれないために人間という存在に備わっている何かなのだ!」


このユーモアこそ、他の動物にはない、人間だけにある希望でもあり、光であり、心からの‘笑い’なのです。


以前、コラムでも笑い声こそ、この世を開くものということでご紹介しました。

肉体において、筋肉を緩めることで痛みが消滅するように、‘ユーモア’とは、心を緩めることのできる、とっておきの武器であり、魂のバネにもなるものなのです。


そんな極限時のユーモアを発揮できる魂になりたいと店主は思うわけです。

自己を見失わないようにするには、一体どうすれば良いのか?


皆さんも一度は考えてみてはいかがでしょうか?


この‘夜と霧’という本を読んで、もし、自分がフランクルと同じ状況であった時、何を考え、どのような行動をとっているだろうか?

を同時体験してみるのも良いでしょう。



ところで、・・・・・

フランクルは、収容所の極限の状況の中における人間の生命力と順応性についてこんなことを書いています。


●一糸まとわぬ裸体で、水に濡れたまま寒い晩秋に一晩中立たされたことがあったが、誰も鼻風邪ひとつひかなかったということ

●収容所に入って以来、一度も歯を磨くことなく明らかな栄養失調とビタミン不足にもかかわらず、歯肉は栄養をたっぷり取っていた頃よりも色艶がよかったということ

●ずっと同じシャツのまま風呂に入ることもなく不衛生な環境下でありながら、土木工事で傷だらけになっても一度も傷が化膿することはなかったということ


これらのことがなぜ起こったのか??

それは、ただ一つしか考えられません。すなわち・・・・

過酷な強制労働であっても、ひとたび働けなくなった体になると、即、死を意味していたからなのです。


死への恐怖、それはストレスの中でも最高度のものであるはずなのです。

しかし・・・・

その極限のストレス下でも病気になることなく、栄養学的にも極限の状況下でも病気にもなっていない人間の恐るべき生命力!

これが、苦しみと痛み、悲しみを超えようとした人間の脳の耐久力の証だったのではないのでしょうか?

ですから、店主は、‘ストレスが病気を作る’と声を大にして言う人達に、人間の可能性をもっと知って欲しいと思うのです。


幸せというものは、環境でいくらでも変わってしまいます。

何も変哲のない、ありきたりな生活の中で幸せを感じることができれば、それが一番幸せな人だと言えるでしょう。

‘幸せになる’ということを考えるとき、もっとも幸せから遠ざかった状況を肯定することが結果的にもっとも早いのです。