前回は、‘引き受け気功’という特殊な気功を紹介しました。
ただ、そのセミナーに参加された方でも、その真価を理解できる人は少ないのではないかと思います。
エネルギーに本来、善や悪といった概念はなく、これは良きもの、これは悪しきもの、という判断を人間が自分の都合で勝手に判断しているだけのことで、この善悪も、人によってすべて基準が変わってきます。
ようするに、すべては‘相対’の世界なのです。
ある時、‘不眠症で、ろくに眠れていないのですが、何か良いものは??’という相談を受けた時、
「何時間くらい睡眠がとれているのですが?」と聞くと
「たった6時間しか眠れないんです・・・!!」と悲壮な目をして訴えているのです。
しかし、・・・
その人にとっては、8時間以上眠れなければ完全に不眠症と思い込んでおられるので、そのことを心配しているだけで憂鬱の極致なのです。
ちなみに、拷問の歴史が各国にありますが、その中でももっとも過酷な拷問が何か知っていますか?
実は、・・・‘眠らさないこと’なのです。
だとすれば、不眠症と言っている方たちは、一体、何時間寝て不眠症と言っているのでしょうか??
まさか、1時間も寝ていないと思っているのでしょうか?
店主の尊敬するあの野口英世博士は、働きっぱなしで睡眠時間が2時間あったかどうかと言われていますので、もし、眠れないのであれば、博士くらい働くことができるのではないかと思えるほどです。
店主などは、いやいやながら読まなければいけない本があれば、10分以内に眠れる自信があります。
とにかく、あらゆる厳しいという環境でも、ある修業の内容と‘比較’するとまったく天国みたいなものです。
そのある修業といわれているものが‘千日回峰’と呼ばれる究極の修業なのです。
この内容は想像を絶するもので、こんな内容を成就できる人間などこの世にいるのか?と思えるものです。
その内容とは・・・・
まず、最初の3年間は100日間、毎日40Kmの道のりを休まず歩き、次の4〜5年間は200日間休まず歩き、そして・・・
700日終了後、9日間の不眠、不臥(立ったまま)・断食・断水の行が待っているのです。
よろしいですか! 誰が9日間の不眠、不臥・断食・断水ができるというのでしょうか?!!
40Km云々は可能性があるとしても、この9日間の修業は、通常4日で命はないであろうと医師も断言するような内容なのですから。
そして、それが仮に達成できても、その後、1日60Kmを100日、1日84kmを100日などの荒行が待っているのです。
これは、もう単なる精神力というだけの要素ではなくなっているのです。 まさに、ギネス級の快挙です。
これらの行の過酷さに比べれば、わたしたちの苦しみというのは一体どれくらいに値するでしょうか?
ということで、これらの極端な修業をされている方々との比較で物事を考えると、心が‘軽く’おれるわけです。
店主が知っているある覚者も、毎日、睡眠時間が2〜3時間で数十年、自身の能力の限界にチャレンジされていますが、この千日回峰を2度成就された酒井さんに比べれば!と比較をして心を軽くしているのです。
ところで・・・
本日は、日本中が騒いでいるワールドカップのサッカーの試合があります。
店主は、このような国際試合を見ているといつも思うことがあります。
それは、いつもいがみ合っている国内のいろいろなチームの応援団たちが、ワールド試合では一致団結して応援をしているのです。
これはなぜか??
そうです! 自分たちの応援する人に‘共通の敵’がいるからなのです。
店主が何が言いたいのかわかりますか?
そうです。
‘世界の人々が一致団結する唯一の手段が何か?’と考えれば考えるほど残されるものは、
まさに、人類共通の敵が現れてきたとき、その時こそお互い同士を殺しあう戦争が無くなるときなのです。
厳密には、人類がほとんど残らないような古今未曾有の転変地変か人類共通の敵が現れた時しか・・・・
当時、アメリカ大統領であったレーガンはソ連のゴルバチョフと会談した時、
「もし、宇宙からわが地球に侵略しようとするものがいれば、我々はお互い同士を攻撃しようとすることもなかろうに!」
と、意味深なコメントを残しているのですが、その人類共通の敵は、まさかCO2であったり、台風、地震にはならないのが残念です。
もし、どこかの国が核兵器を使用する時が来るならば、宇宙人でもガメラでもバルタン星人でもくればよいのです。
放射能汚染だけは、その土地は数百年使いものにならなくしてしまうものなのです。
チェルノブイリの汚染を見てもわかるように、いまだに近づけないくらいに放射能値が高いままなのです。
では、我が日本に落ちた原爆の爆心地の土地に、なぜ、人間が住めているのか?
その秘密は、広島と長崎に原爆が投下された後、すぐに台風と洪水が起こり、放射能を洗い流してくれたからなのです。
この聖なる水による浄化作用がなければ、今のネバダ砂漠やチェルノブイリのままなのです。
ということで・・・
私たちは、個人でも国的にも時に憎しみ、嫉妬し、悲しむこともありますが、すべては相対の世界から生まれた独自の偏見から生まれた産物なのです。
このことに早く気づき、そして、‘許す’というもっとも高貴な心を復活しなければなりません。
パレスチナとイスラエルのように、‘同胞を殺された’と言って、許す心がなければ未来永劫にわたって戦争がやむことはありません。
台湾の親である蒋介石は、自身の身内も日本軍によって殺されていたにも関わらず、日本が負け、多数の日本人が捕虜となっても、一切罪を求めず、無罪放免で日本に返したという偉大な許す心があった方でした。
‘許す’という漢字は、午の言葉と書きますが、午とは午前、正午があるように太陽が南中するもっとも明るく眩しい時です。
まさに、日(火)の神、天照大神であり、大日如来であり、イエスが生まれたのもすべて馬小屋の馬(午)を象徴しているように、神の言葉そのものを暗示しています。
では、なぜ、言に神と書いて許すという意味にしなかったのか? といえば
‘明るさ’を維持することの大切さを強調したいがためなのです。
許すこころがなければ、人は明るく心をとどめ続けることができない、ということです。