山越義雄さん
日本最高の強運男‘山越義雄’物語

日本最高の強運男‘山越義雄’物語 Vol.1
時は、昭和26年9月。
当時、牛の売買を生業としていた山越さんは、商談の為、北海道へ向かう途中だったという。

その時、汽車を交通手段に使っていたのだが、その汽車が山形県の余目(あまるめ)という所に近づいた時だったという。

北海道へ搬送していた牛のロープが切れ、汽車が揺れるたびに足場がふらつくのを手で押さえて何とか牛を倒れずにしていた山越さんであったが・・・

「こりゃ〜たまらん!この状態があと何時間も続いてはわしのほうがもたん!」
と、何かロープの代わりになるものはないかと汽車の中をくまなく探すことにした。

そして、しばらくして、目の前に工事現場でよく見かける寅ロープ(黄と黒色のロープ)を発見!
「こりゃ〜もってこいの代物だ!」と喜んだのだが・・・!

ただ、そのロープは本来、鉄道会社の所有物であるわけで、無断では勝手に借りることはできないとはわかっていたが、なにせ状況が状況だけに

「無断で拝借するのは悪いこっちゃけど、後でちゃんと返すけに許してくれよ!」

と心で叫びながら、寅ロープを拝借してしまったのである。

しかし、その時は‘運悪く’その行為を見ていた乗客が山越さんのことを車掌に通報してしまう。

そして、通報を受けた車掌が、山越さんの貨物までやってきて・・・

車掌:「この寅ロープは、どこから持ってきたんや?」

山越さん:

「いや〜、悪いとは思ったけど、牛がこういう状況やから、後で必ず返すつもりでちょっと拝借してしもうたんや」

車掌:

「あんたの言い分もわかる。でもな、わしもそうですかといって見逃すわけには立場上できへんのや!
そうやなあ〜 、悪いけど、あんたの牛を積んだこの貨物車だけを切り離して、次の汽車が来るまで待ってもらおうか!次の汽車には連絡しとくけん、それが罰だと思ってくれ!」

かくして、山越さんの牛の貨物車両だけが、その場に残されることになったのであった。

そして、列車がいずことなく消えていき、次の汽車が来るのをひたすら待ち続けて一日遅れで青森県の港に着いた時であった。

その時、港では消防車からパトカーやら、すさまじい数の車と人でごったがえしているではないか?

この騒ぎこそ、世界で2番目に大きい海難事故として今も記録されている’洞爺丸遭難’の現場であったのだ。
(1番はあのタイタニック号の1500名の死者、2番めは洞爺丸の1200名)

この惨状を目の当たりにした山越さんは、「なんちゅうこっちゃ〜!もし、最初に乗った汽車に乗っていたら、間違いなくこの洞爺丸に乗っておったわ!」と寒気と安堵が交錯する複雑な気持ちであったという。

洞爺丸遭難がニュースで全国に伝わるや、徳島の親類、知人の人たちは「山越が死んでもうた!」と大騒ぎ。

そして、葬式の準備を始めなければいけないと思っていた矢先、山越さんがひょこっと帰ってきて、その姿を見て、また、大騒ぎ!

しかし、わざわざ列車を切り離されて助かるということがあるのだろうか?
全世界を見ても、まず、ないだろうと思えるほど強運な人、それが山越義雄である。



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