本日は、昨日の‘緑の日’の振り替え休日となっていますが、緑の日というのは、昭和天皇の誕生日です。
終戦直後、日本が壊滅的なダメージを受けている時、日本国民すべてが飢え、絶望と退廃の気運の真っただ中にありました。
その時、天皇は、敵の総大将・マッカーサー元帥に会いたいと打診します。
その報を聞いて、マッカーサーは、‘どうせ、自分の命だけは助けてくれ! と命乞いに来るに違いない!’ と思うのでした。
天皇は戦争責任を問われ、死刑は免れないということは決まっていました。
そして・・・・
1945年9月27日、かつての18000人の近衛兵が天皇を護衛することもなく、通訳とたった二人でマッカーサーに会いに行くのでした。
マッカーサーは、この時、二個師団の軍隊を待機させ、パイプを口にはさんで座って天皇を迎えたのです。
天皇は、マッカーサーに対峙するや、直立不動で
「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、閣下に会いに来ました」
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。」
「私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。」
「絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。」
と、天皇自らが一番否定するであろう、戦争責任と自己の保身に対して、すべてを認め、捨身の覚悟を放たれたのでした。
さらに、
「罪もなき国民が、住む家もなく、着る服もなく、満足に食べるものもありません。何卒、閣下の甚大なる御配慮によって、国民に衣食住の足りんことを切にお願い申し上げる所存です。」
この言葉を聞き、マッカーサーは、驚愕し、国民の親ともいうべき天皇の愛情と覚悟を知ることになったのです。
そして、天皇の捨身の愛情に触れた敵の総大将・マッカーサーは、天皇の戦争責任を当然とし、裁判にかけて処刑しようとするアメリカ本国に対して、天皇の戦争責任を回避しようと説得するのでした。
「日本が真に民主主義国家になれるのであれば、天皇制は消滅しなければなりません。これが理想的ではあるが、天皇を裁けば、ひどい混乱を引き起こし、多くの親日家たちも、政府を維持できるだけの人物を見いだすことは不可能だと思っています。」
「天皇を葬れば、日本国家は分解し、連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くでしょう。」
また
「復讐の為の復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがあります。」
「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生するでしょう。」
「近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるでしょう。 そのような事態が勃発した場合、最低百万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければなりません。・・・」
と、可能な限りの意見文を添えて、アメリカ本国を説得するために奔走するのでした。
これは、まさに孟子の
「至誠にして動かざること、未だあらざるなり」
という、誠の偉大なる力であり、敵の総大将の心をも心服させた陛下の国民を思う慈しみの心の尊さといえましょう。
そして、先の密教界最高峰の中村公隆和尚との2時間に渡るお話の中で、店主の質問に対して和尚様がお答えになった内容に、
「なぜ、この偏境地の鏑射寺にこられたのですか?」
「それは、明治政府の推進した‘廃仏毀釈’という仏像や寺院を破壊するという機運があった時、それを皇室の方々は危惧されておられた。」
「そこで、その仏教を日本にもたらせた聖徳太子の母君の里である神戸三田の鏑射寺に皇室の方々は参っておられた。」
「ある時、皇室の方々と談話をしている時なのに、話の途中で料亭の者がテレビを持ってきてスイッチをかけたんです。」
「その時、ちょうどある地域に台風がやってきていて、その状況を皇室の方々は見入っていたんです。」
「どの地域に台風が来ても大変だから、大丈夫だろうか?? と、皇室の方々は、本当に国民の安全を危惧しておられ、感動しました。」
「ですから・・・わたしもその皇室の方々の参拝されている鏑射寺にやってきたのです。」
「当時、何にもない所でしたから、下界に降りて行って、寝袋一式だけを買ってきて、そこで寝泊まりしたのが始まりです・・・」
と、ここでも皇室の方々の愛情、慈しみの心が中村和尚を動かせるキッカケとなったのです。
先日の平成天皇のお言葉にも
「もし、わたしたちの身に何かあれば、葬儀は簡素なものにするように」
という、宮城の震災における惨状と現在の国民の経済的困窮を考慮しての希望であり、他人事ともせぬ愛情といえます。
ところで、・・・
皆さんの知らないところでこのようなこともあるのです。
大阪に日本最高峰の霊覚者がおられるのですが、その方とお話をしている時、
「内藤さん、阿弖流為(アテルイ)という人を知っていますか?」
「ええ、あの征夷大将軍の坂上の田村麻呂と戦った蝦夷の族長ですよね!」
「そうです! 最初、神霊から名前の漢字を見せられた時、なんて読むのか全然わからなかったなあ〜!」
「そのアテルイを救え!! と神霊に言われたんですよ。」
「アテルイは、朝廷の軍隊と戦い、最終的に敗れ、最初、茨城の鹿島神宮の近くまで流され、最後は、大阪の枚方の近くで処刑されているようです。」
「しかし、アテルイと戦った本人である田村麻呂自身は、朝廷にアテルイを処刑しないで欲しいと嘆願書を書いているみたいです。」
「朝廷が蝦夷に勝手に侵略して行き、一族を守ろうとして戦った誉れ高き族長であるアテルイを殺したくはなかったのでしょう・・・・」
これは、すなわち・・・
‘アテルイを救済せよ!’ という神霊の言葉は、侵略目的でなく、一族を守る為に戦った誠の者として、いつか必ず救済の道が開かれるということです。
神霊は、わたしたち人間の死後までも永遠に見守って頂いているという意味でもあります。
そして、そのようなお役を担う神霊とツーカーの霊覚者もおられ、今回の震災でお亡くなりになった方々の魂の救済にも尽力されているということが、一般の方々の知らないところで静かに遂行されているのです。
目に見える救済もあれば、目に見えない救済もあり、慈しみの心の偉大さを感じています。