店主 内藤
世の矛盾、スジの通らない事に店主・内藤が吠える!
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痛快!店主のひとりごと
店主のひとりごと Vol.167
執着心の本質
2010.9.28

もう9月も終わりに近づき、今年もあと3か月しかありません。

皆さんは、今までにできなかった何ができるようになったでしょうか?

ようするに、何が進歩したかということです。

毎日が同じ生活の繰り返しで、他の動物と決定的に違う‘成長’という人間の偉大な可能性を失っていませんか??


レオナルド・ダ・ビンチは、万能の天才と言われているけれど、店主には、

‘誰よりもたくさんの楽しみを作った天才!!’

と思えるのです。

なぜなら、イヤイヤながら絵画や医学、芸術、建築学を学んだはずがないからです。

それぞれのおもしろみを味わいながら、好きで感動して体得していった技術だと思うのです。

そして・・・・

物事を何かしていると、必ず‘飽き’がやってきます。

しかし、そこにいろんな分野の楽しみごとを持っていると、医学のことが飽きてくれば、次は絵画に・・・と‘楽しみのウルトラC’も可能なのです。

あくまで、その趣味が高尚で、多趣味であったことが世界中の人々が称賛するようになっただけなのです。


また・・・

ここで考えなければならないことは、医学を学ぶことが高尚だと認識していること自体が、‘思い込み’と‘偏見’なのであって、もし、‘釣り’が高尚な技術として広く認識されていれば、どうやって釣れるだろうか?と理論を果てしなく展開する者がステータスが高くなるのです。

香港にいけば、学者、金融業者、上級公務員、国会議員よりも‘風水師’のほうがステータスが高いこともあり、年収も億を軽く超える人がザラという実例もあるくらいです。

あくまで、何に価値を見出しているか?という認識の違いによって、ステータスはいくらでも変わっていくものなのです。



それでは、・・・今回のテーマについてお話をしていきたいと思います。

まず、一般のわたしたちの想いを象徴する例を実話から説明していきましょう。


時は、昭和の初期の頃、ある一人の男が毎日襲ってくる偏頭痛に悩み苦しんでいました。

毎日というのは、10日間でもなく、本当に365日苦しんでいたのです。

あらゆる病院の門を叩きましたが、まったく功を奏さず落ち込んでいた時、病人をたくさん救っているという一民間人の男のウワサを聞き、救いを求めた時のことでした。

そして、その人物と会うことができたのはよかったのですが、その人物は、偏頭痛の彼の苦悩を言ったことなど聞いていないかのように、こう言ったのです。


「私が観るに、今の頭痛よりも10日以内に足に大きな腫れものができるように思うのだが、そちらのほうが心配なのだが〜!」

「先生! その腫れものは何とかならないものでしょうか?」

「う〜〜〜ん!  わたしにもどうにもならん〜!!」


ということで、期待感がいきなり絶望になって、落ち込んだまま偏頭痛の彼は家に帰っていったのでした。

そして・・・・

10日後、彼は走りながら、その腫れものを宣言した男の前にやってきたのでした。

その表情は、真っ赤な顔で怒り心頭で、荒い息を吐きながら問い詰めました。


「先生っ!!あなたは足に腫れものができると言って10日間待っていたけれど、それらしきものなど何にもできないじゃありませんか??」

そして、その剣幕もよそに先生は静かに答えました。


「ところで、・・・あなたの頭痛はどんな調子かの〜!?」

「あっ! あまりに足のことばかり考えていたので、頭痛のことを‘忘れていました’!!」

「10日間という間、ず〜と痛まんかったのかのう?」

「はい、まったく痛みませんでした・・・??!!」

「では、忘れていたついでにこれからもズっと忘れていてはどうじゃ〜?」



このお話を聞いて、皆さんはどのように思われるでしょうか?

この内容は、あらゆる示唆を含んでいます。

‘執着心’というものの本質を別な角度で悟らせてくれる実話です。


自分の思っていることを客観視することの偉大さ、難しさをこの‘店主のひとりごと’で紹介しているのですが、再度、客観視して観音の眼になって頂きたいものです。


観音の真の意味は、‘自分を観察したるにすぐれたる者’です。


ガンなどの病気の方々は、体温の低いことを気にされている方も多いことと思いますが、この体温に気がすべていっていることも上記の例といっしょなのです。

そのようなことに気を取られるくらいなら、白く光る球を思い浮かべ、体にあるすべてのマイナスのものを消し去る光で充満している、と観想するほうがよほどマシです。

囚われるというのと、集中するというのはまったく別物で、想いのネルギーは時に物質化することさえあります。

このあたりのことは別の機会で詳しく述べたいと思います。

余談ですが、霊能者のように、背後の霊の力で金粉や時計を出すというものなど、まったく驚くにあたらず、人格の高さなどまったく関係ありません。

あくまで、霊の力を自分の力だと勘違いしているいわゆる操り人形みたいなものなのですから・・・・


真の神霊は、絶対そんなことをしないということを知らないのです。

摩訶不思議なことをして、人を信じさせたり、惑わすというやり方を一番嫌うのが神霊なのですから・・・

これを‘正法に不思議なし’というのです。


では、真の超能力とは、どういうものなのか??

それは、・・・

人間が何千回、何万回という試行錯誤の中で培ってきた努力の結果身についた‘研ぎ澄まされた感性’のことをいうのです。

若い頃よりおまんじゅうを作り続けてきたおばあちゃんが、何気なくちぎって置いたおまんじゅうの重さは、何度やっても一発で35グラム・・・

造船のあの底の部分の鉄を微妙な曲線に曲げるコンピューターでもできない調整技を・・・・・

忍者や特殊部隊のように、人の殺気を読んだり・・・・


これらの能力をお釈迦様も定義した本当の超能力と呼ぶのです。

一般の方々はできないけれど、しかし、人間の努力の先にあるもの・・・それが最も尊いのです。