店主 内藤
世の矛盾、スジの通らない事に店主・内藤が吠える!
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痛快!店主のひとりごと
店主のひとりごと Vol.161
天上天下唯我独尊
2010.08.06

この暑い夏の日にも、なぜか暑苦しく感じるくらい人の行列ができている先を見渡せば、・・・・そこにはおスシを食べようとしている人々が・・・

「なぜ、ただでさえこの暑い中を、何を好き好んで冷房も効かない外でも待っているのか?」 

と不思議に思いつつ、店主は、時間をピークがすぎる21時を回ったころを見計って、その待つことのデメリットを超える満足の正体を探りにそ〜と店舗に入っていったのでした。

本来、スシがあまり好みでもない店主にとっては、何げなく発注をして、ただ、たんたんと口に入れるだけの単純作業のような繰り返しでした。

ただ・・・その間、いろんなおスシを眺めていると、思わず‘うに’の姿に視点が集中していました。


この‘うに’という食べ物は、以前、紹介したことがあるように‘脳’の最高の栄養源なのです。

その‘うに’をよ〜く見てみると、なんだか脳そのものに似ていると思ったことがある人もいるかと思います。


実は、これを‘相似象の原理’というのです。


例えば、ガンの前段階にできる‘ポリープ’というものをご存知だと思いますが、このポリープという形は、何かに似ていませんか??

そうです!  ズバリ・・‘キノコ’に似ているのです。

この免疫疾患によって発生するモノには、キノコは有効なのです。

もっと深いところでは、あの原子爆弾のような放射能汚染によって発生した疾患こそ、原子爆弾そのものの‘キノコ雲’が象徴するように、キノコが有効なのです。


あと、同じ脳に有効なものでは、‘クルミ’もそうです。

皮をむくと、パカっと脳が飛び出てくるような錯覚になるくらい似ています。

当然、脳に有効なモノなのです。

このように、自然界は様々な形で、わたしたちにとって有効なモノを暗示的に教えてくれているのです。

これを先人たち、特に、アマゾンのような原住民ほど、鋭い観察の中で検証し、子孫に代々伝えていったのです。

ということで、・・・・

この‘相似象’ということも頭に記憶して頂き、何かの智恵として活用して頂ければと思います。



それでは、今回のテーマであります‘天上天下唯我独尊’ということについてお話をしてみたいと思います。

この天上天下唯我独尊という言葉は、ある意味有名な言葉ですが、お釈迦様の言葉であるとか、そのお釈迦様以前の賢者の言葉とか、いろんな説があるのですが、誰が言ったのかは問題ではありません。

問題なのは、その中身なのです。

字をそのまま訳せば、「天の上にも下にも我が最も尊い」という意味にとれますが、一体、どういうことなのでしょうか?

本当に、お釈迦様もしくは賢者は、我が最も尊いと宣言したのでしょうか?


では、この意味をわかりやすくするために、いつも考えている‘逆説的’に考えてみることにしましょう。


すると、「天上にも下にも、わたし以外がすべて尊い」となりますが、この文章を見ていると何か気づかれませんでしょうか?

読者の中には、こんな言葉を思い出した方もいるはずです。


「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」  という、あの有名な言葉を・・・・・


そうです。親鸞の歎異抄(たんにしょう)という書物に書かれた「悪人正機」という中味なのですが、この意味は・・・・・ 


「善人が極楽に行けるのなら、悪人が行けないわけがない」という変な意味にとられやすいところが、そうではなく・・・

「自分が悪いことをしているのに‘善人’だと信じている人が天国へ行けるのなら、自分は、いろんな面で至らぬところがあり、罪もドンドン作っていると自覚して‘悪人’と思っている人が天国に行けないはずがない」という意味です。


そこで、先の‘天上天下唯我独尊’の意味が明らかになってくるのです。

つまり、「我という人間そのものの個性の存在は誰をも比較できないほど尊い」ということになるわけです。


我というものを形成している個の存在は、誰をも犯すことができず、個の存在が皆、異質であるから尊いのであって、逆に、皆が全く同じ個性であれば、何のおもしろみもなく、進歩、発展する材料にもならない、ということでもあるのです。

尊敬できる人は目標に、はずべき行為をしている人、失敗した人からは反省の材料にと、すべてがまさに学びのヒントであり、材料なのです。


そして、・・・・・・


この‘天上天下唯我独尊’という意味を店主は、次のようにも感じているのです。

すなわち、‘究極の個人主義のススメ’でもあると・・・・


つまり、こういうことです。

今、車を走らせていた時、その車がプリウスとすると、こう思いながら運転するのです。


「このプリウスは、トヨタが何百人の技術スタッフと何十億円という費用と10年の歳月をかけて私のために開発してくれたモノ」

「今、走っている高速道路は、様々な立ち退き交渉の労を尽くし、わたしのために何十億という費用と多くの人員を総動員して作ってくれたモノ」

「今来たラーメン屋は、わたしのために日夜味を研究し、この立派な建物とスタッフを用意して待ってくれていた」・・・と。


動物園も水族館、そして、映画館も、それは、まさに自分のために作られたモノで、この世で自分を生かすためにすべての食料も恋人も友人も存在している、と思えば良いのです。

当然、実際は公共のため、他社の製品よりも優れたモノを作るため、個々人の生活のために作ったり売られたりしているものですが、そんなことを考えるよりも、上記のようにすべては自分のために作られたモノと思えた方が気分がいいですし、逆に‘感謝の念’が湧いてきます。


これが、究極の個人主義的価値観であり、一転して、何よりも感謝の念が起こるという原理なのです。

究極の個人主義には、究極の利他(感謝)主義が重なっているのです。

これを易教的な言い方をすれば、「陰極まれば陽、陽極まれば陰」ということになるでしょうか。


この週は、親鸞上人が何度もキーパーソンとして表れていたので、上記のことを教えてくれていたのでしょう。